「なんでみんなとちがうの?」と聞かれて泣いてばかりいた小学一年生

「なんで白いの?」と聞かれて泣いていた小学一年生
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1990年、春。
僕は地元の幼稚園を卒園して、地元の公立小学校に入学した。

入学前には、親に連れられて校長先生へ説明に行ったのを薄っすら憶えている。担任になる先生も同席していただろうか…?
ぼんやりと、けれど「他の子はしていない特別な時間を過ごしている感覚」はあって、少し戸惑って、モジモジしていたような気がする。
視力が弱いこと、日焼けをしないよう注意が必要なことなどを説明した上で、当時は7組と言われていた特別支援学級ではなく、普通学級に入った。

児童数は全校で800人を超える、わりと大きな小学校。1クラス40人以上で1学年に4クラス。
兄2人も通っていたこともあり、通学班も近所の子たちと一緒で、特別困ることはないはずだった。

けれど、入学してすぐに「難しさ」を感じたのは、友だちからの「かすやくんは、なんで白いの?」という問いかけに、答えられないことだった。

親ですら、本当のところは理解しきれているわけじゃなく、医師から聞いた中でもなるべく安心できそうな信じたいと思える言葉を信じていたに過ぎない。ましてや「アルビノ」なんていう言葉は一般化していない時代。

それまで家族や親戚が「こうちゃんは…、そうだからね」と、わからないままで受容してくれていた環境から、初めて「自分のことを自分で説明しなくてはならない状況」に立ち、けれどそもそも自分が何なのかなんて自分でわかっていなくて、説明できなくて困惑して…、ただ泣いていた。

今思えば友だちの方こそ、困っただろうな…。

SNSどころかインターネットすらなく、多様性なんて概念も生まれていなかったような時代。
当時は外国の人を街で見かけるのも珍しく、髪を金髪に染めるのは不良の象徴のような社会で。
目の前に、今まで見たこと無い「髪の毛も肌も白い日本人の友だち」がいて。
自分や他の友だち、みんなとちがう「この子」が不思議で…「なんで?」と質問してみたら、その顔を真っ赤にして泣きじゃくった僕。

周りの先生たちが、どうケアしてくれていたのかは憶えていないけれど、後になって本人はよくわからないまま気まずそうに「ごめんね…」って謝ってくれた友だちの声が、少し思い出される。

今更だけど、僕の方こそ困らせてごめんね。

そんな出来事があって、僕が母に「ぼくはどうして、みんなとちがって白いの?」と聞いた…かどうかは思い出せないけれど。
その頃に、幼い僕にわかる言葉を選びながら説明をしてくれた。
その中から、当時の僕がしっくりきたのが「生まれつき」というワードだった。

「とにかく、この自分は、生まれつきなんだ。」

それだけの理解が、精一杯だったのだろう。そして今思えば、当時の僕にはそれで充分だった。

確かに、小学1年生に「遺伝子疾患で、色素が無いから髪や肌が白くて…」なんて説明しても、まだよくわからなかった。
友だちだって、そういうちゃんとしたことを理解しようと思って「なんで?」なんて聞いていなかったんだ。

純真無垢な子供の言葉に、悪意は無い。
ただ自分が知らないことに「なんで?」と疑問を持っただけ。
まだモノを知る前だからこそ、どんな言葉が人の心を揺さぶってしまうのかも知らなかったんだ。
実際に僕も、なぜ泣いてしまうのか、うまくわからなかった。

それ以降も、友だちになっていく同級生から、何度となく「なんで白いの?」「ガイジンなの?」なんて聞かれた。
まだ口馴染んでないうちは涙を浮かべながらだったけれど、次第に慣れて…というか「みんなとちがう白いぼくに、なんで?って聞きたくなるのが普通だ」と、少し客観的にみんなの気持ちを理解しはじめて。

「ぼくは、生まれつきなんだよ」と、答えられるようになっていった。

同年代のみんなも理解力は一緒だったようで。
僕がそう伝えさえすれば「ふーん…そうなんだ」でおしまい。子供なんて、そのくらいで充分だったんだ。

「こうじくんは、なんでみんなとちがうの?」
「これはね、生まれつきなんだよ」

「ふーん…、生まれつきってなに?」
「生まれたときからってこと」

「ふーん…。」


最近になって、兄の子どもたちから同じように聞かれて、ようやくあの頃の自分のことを少し理解できた。

姪っ子から「こうじくんはなんで髪が白いの?」と聞かれて。
甥っ子から「なんでぼくたちと目の色がちがうの?」と聞かれて。
「僕は、生まれつきこの色なんだよ。」と答えながら…、あの頃と同じように少し、胸がキュッとなったのだけれど。

大人になって、今になってわかったんだ。

悲しさでもなく、怒りでもない。
みんなとちがう自分という存在の劣等感だなんて拗れたものでもなくて。

ただ…「ちゃんと説明しても理解してもらうのは難しい」という、寂しさ。
自分でも理解しきれない自分という存在について、一生懸命に説明をしたとしても理解してもらえないんだということ。
こと小学校低学年ならなおさらだ。ちゃんとわかってもらうなんて難しすぎる。

あの時代の僕らは、学校の先生や大人たちでも「わかりやすく答えられる人」はほぼいなかった。
だから…、誰も理解しきれない自分という存在を人に説明できない自分が、なんだか寂しく、悔しくもあった。

令和の現代なら、もうひとつ付け加えて「アルビノっていう、生まれつきなんだよ」と教えてあげられても良いと思う。
あとは「アルビノって何?」ってAIにでも質問すれば、それなりに知ることが出来るだろうし、自分の力で理解できるところまで調べていくことが出来る。

遺伝子疾患だとか、メラニン色素だとか、黄斑低形成の弱視だとか、そういうのはもう少し物心ついてからで良いし。

とにかく嘘ではなく、けれど難しくなく。
その時、相手と一緒になんとなく納得できる丁度良い言葉。

よく考えれば「生まれつきだから」では何も疑問に対する答えにはなっていないのだけれど。
「なんで?」の疑問が、なんとなく「ふーん」で済むくらいの言葉が良いんだ。


はじめましての自己紹介みたいな時期に「自分を説明する言葉」を持てていないのは、寂しかった。

こんな経験は、先天性の、しかも明らかに“みんなとちがう疾患”ならではなのかも知れない。

だからもしかしたら…「あなたは、なんで、そうなの?」と聞かれて困惑する幼心を、理解してもらえないかも知れない。

自分自身のことを聞かれて、自分自身で理解しきれていないから、答えられなくて泣いてしまう。
あの感覚は、今でも上手く理解してもらえるように説明することは、難しい。

ただ僕は「生まれつきだから」の1フレーズでほとんど全てを「ふーん」とやり過ごしてきた。
何も解決していなくても、僕と友だちとが納得してしまえるその言葉だけで、充分だった。

「これはアルビノって言うんだよ」
この魔法のようなひと言が、幼いころの僕の世界に存在していたなら、どれだけ簡単だっただろう。
親も、先生も。大人たちがその言葉を持っていたなら、どれだけケアしやすかっただろう。

自分を説明する言葉が見つからなくて泣いた、あの寂しさは…
もう現代には存在しなくていいと思っている。

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